日常の様々な事柄に忙殺されながら、
気付けば、父が逝ってしまってから、半年。
親を亡くすということが、こんなにも身を裂かれるようなことなのかと
泣いてばかりの1年でした。
まるで幼い子供のように。
特別に愛情の深い人だったので、
その庇護の下に送ってきた私の人生。
自分がこの世を去る時、枕元に父が居てくれたら
きっと怖がらずに行けるだろうと、ずっと思っていました。
井上靖の「我が母の記」に、こんな下りがあります。
「生きていた父が 死から私をかばうひとつの役割をしてくれたことに、父の死後気付いた。
父に死なれてみると、死と自分との間が、ふいに風通しがよくなり、
すっかり見通しがきいてきて、
否応なしに 死の海面の一部を望まないわけには行かなくなった。
父が生きているというだけで、子供の私は父から大きくかばわれていた。 」
やっとこさ、この平凡な毎日に戻りつつある今思うのは、
悲しい時は、泣くべきだということです。
その感情を否定せずに、思いの丈 涙を流すことが
自分自身のため、
そして死者への手向けとなる・・・。
そうだよね?お父さん。
悲しみが襲ってくる時期は、皆違います。
悲しみは厄介で、身体や精神の不調までも引き連れてやって来ます。
その人の不在の大きさを、思い知らせてやらんとばかりに。
でも、またいつからか、
日々の何気ない出来ごとに、胸を打たれ
窓から差し込む陽の温かさに 心地よさを感じるようになる。
その陽の光こそが、私にとって、父なのではないかしら。
大切な思い出は、決して無くなりません。
まだまだ、父のいろんな話を聞かせてください。
そして私もまたその思い出を、語り継いで・・・。
そうやって、父もこの世に一緒に存在して行くのです。
今、悲しみに暮れている人のために・・・。