昨夜はお能を観に、天王寺の方まで出かけてきました。
舞われたのは、Iさん。
日本の伝統芸能に精通されていて、筋の通らぬことは許さない厳しさを持ちながらも、
我が家にとっては気を遣わずなんでも話せる、親しみ深い方。
Iさんのおかげで年に一度はこうやって、お能に親しむことが出来るのです。
今回の演目は隅田川。
事前にIさんよりいただいた、台詞や筋書・見どころなどが書かれた紙を見ながらなので、
一見敷居が高そうなお能も、いつも面白く観ることが出来ます。
「人間の身体のこなしと、心理状態の中から一切のイヤ味を抜いたものが能である。
そのイヤ味は、或る事を繰り返し鍛錬することによって抜き得る。」との夢野久作の言葉が、
能というものをとてもよく表していると思います。
ここで、「夢野久作の能世界」から、少し引用。
(馬鹿な私は、この本を二冊も持っているのです。)
(馬鹿な私は、この本を二冊も持っているのです。)
能と芝居とを比較してみる。前述の六平太氏の話が具体的に説明されるばかりでなく、芸術界に於ける能の立場が一層ハッキリとなると思う。
誰でも知っている通り、一般の芝居の舞台面には写実の分子が
そこを悟ったものかドウかわからぬが、この頃の新しい劇で背景を白と黒の線、又は単純色幕の組合わせで感じだけ扱って行く研究が行われているとか聞いた。多分西洋の事と思うが、それでもその背景の感じを
こうした出演者の表現能力のみをもって舞台面を一パイにして行く行き方に、日本では所作事式のものが色々ある。中には背景の代りに合唱隊や、囃方が、む き出しに並んでいるのもあるが、そんなものは出演者の表現力に掻き消されて、チットモ邪魔にならない。のみならずその合唱隊や囃子方の揃った服装や、気合 い揃った動きは、気分的に厳粛な背景を作って、演舞者の所作があらわす気分を、
そのようなものを見る観客のアタマは、写実一方の舞台に感心する観衆のソレよりも遥かに進歩している。芸術的に洗練、純化されている。それは人の好き好 きで、どちらが高いの低いのというのは間違っているという意見も時々聞くが、芝居好きになればなる程、背景や所作の写実的なのが低級なものに感ぜられて来 る……というのは衆口の一致するところである。そうしてこの傾向が進んで来ると、或る個人の一定の型による舞台表現によって、その人間の個性……すなわち 芸力や持ち味が如何に発揮されるかを見て喜ぶという傾向になる。歌舞伎十八番なぞはその一例で、平生の芝居でも、誰の何々はこうこう……なぞいうところに 観衆のこうした観賞欲が含まれている。
もっと進んだ芝居好きになると、扮装も背景も無い素舞いを見て随喜の涙をこぼすのがある。
能はこうした舞台表現の中でも、一番いい処……すなわち芸術的に格調の高い処ばかりを撰り抜いて綜合、研成して来たものである。
下の絵は、隅田川の小道具。
笹は 狂った心理状態をあらわすものとして、シテである狂女が手に持っています。
左の草がのせられた塚は、ずっと舞台上には設置されているのですが、
物語が進むにつれ、リアルな存在となってゆきます。
最後にはこの塚の中より、子供の亡霊が・・・
![](https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgn0UsH11WZp-cmU_CScHJKXK9xbR6EUkMXK2TDTbj82MKQzOWVzIFbXqMBkmUR7FeYpqkckB_8ZW7VHIfvyqTU0swm9v7ocdmNjONEr5jMSJi2gKJH_iUafgU7hF4p8zbpJ2n2sT3hrxQ/s400/pic_09-04.jpg)
両手を差し出しても、すり抜けて行ってしまう、亡霊。
隅田川のストーリーはもちろん、
Iさんの簡潔ながらも悲しみの伝わってくる姿に、涙が出ました。
滅多にここまで感動しないのですが、忘れられない夜となりました。
さて、次回はどんな演目をなさるんだろう。
なんとも楽しみ。