1/29/2010

人形の終の棲家





 最近よく思うことは、人形は、終の棲家を得て初めて幸せになるのであって、私の仕事は、その橋渡しではないかなぁ、ということ。

人形を作り始めた頃は、どれも気持ちが入りすぎて、なかなか手放すことが出来ませんでした。

いつしか、心から迎えたいとおっしゃって下さる方々に、必要とされているのなら・・・と人形を送り出すようになり、想像していたさびしさよりも、むしろ安堵感で満たされ、不思議と穏やかな気持ちになれることを知りました。
それは多分、出会うべくして出会った、赤い糸のようなものが、人形と迎えて下さる方の間にあり、そうなることが自然の成り行きだったと素直に信じられるようなやりとりを、何度も経験させていただいたことによると思われます。

 先日、人形を迎えたいというメールをいただきました。
一体は、足に窯傷があったブリュ。 もしお待ちいただけるのなら、足を焼き直そうか・・・と考えていたのですが、その方(E様)からいただいたメールを読んで、初めて受けた小さな(けれど深い)衝撃があったのです。

「ブリュとはご縁が結ばれていたようです。窯傷が
 あるとのことですが、その子もきっと辛かったでしょう。
 私も腰の大手術をして陶芸やHULAを諦めてきました。
 人は西の国に近いほどいろいろなものを失ってゆくものですが、
 その悲しみも分かち合えることが出来れば悲しさも薄らぐでし
 ょう。そして、素直にいつかは無くなる存在であることも受け
 止められそうです。きっとこの子が私の力になってくれそうで
 す。感謝いたします。」
私は、人が皆同じで無いのは当たり前だと思いますし、身体的にも精神的にも何か違う部分がみとめられれば、それは一人の人間の個性だと考えて来ました。
そうした違う部分を持った人にこそ、普通の人に無い魅力のようなものを感じていたのです。
けれど、それを人形に当てはめたことは皆無でした。

もちろん、だからと言って、傷のついた人形を作っていいというわけでは無く、本来ならすぐに焼き直すべきでした。だけど何故かその時は、そのまま組み立ててしまった・・・そして、その傷ごと喜んで受け入れて下さる方があったということは、どうしても運命のようなものを感ぜずにはいられません。


 人形を迎えて下さる方に、それをモノととらえる方はまずありません。命あるものとして、尊重して接して下さいます。
では、子犬や子猫のようなイメージかというと、それも全く違う・・・。
神秘的な、愛すべき対象・・・というような感じなのでしょうか・・・?
完全には、私にはその感情は分かりません。なぜなら、私はやはり、作り手であるからだと思います。
いずれ手放すだろう人形を、それでも愛情をいっぱい注いで作っているのですが、本当の愛を受けるのは、巣立った先・終の棲家なのでしょう。 (そう、終の棲家となることを、いつも信じて送り出すのみです。)

 E様は、もう一体、赤いドレスのブリュも、お迎えくださいました。
すでに所有されるアンティーク・ドール達と、一番相性の良さそうな子・・・と悩まれながらも、結果、最初にハッとされたという人形を選ばれたのです。

昨夜、その2体の人形が無事到着したとの、嬉しいメールをいただきました。これを読んで、有り難く思うと共に、人形を作ることの喜びをまた、実感しました。

「なんて綺麗な子達でしょう。ショパンのピアノコンチェルト
 1番2楽章ロマンスが似あう子達です。花ならーさくらー。
 洋風の顔はしていますが、魂はジャパニーズ。   
 この子達に出会えて本当によかった。
 わたしの感性にソフトにおちゃめに寄り添ってくれるでしょう。
 感謝いたします。」