2/01/2010
ライ麦畑のサリンジャー
記憶の中で、初めて本に感動を覚えたのは、小学生の頃に図書室で読んだ「ああ無情」でした。
その後に訪れた思春期に、バイブルのように何度も読み返した本は、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」です。
その、J.D.サリンジャーが亡くなってしまいました。
同じ時間を生きているというのに、一人だけ、時が止まってしまったような・・・そんな作家だったように思います。
「どこがいいの?」と聞かれても、いつもなかなか上手く答えられないのですが、子供から大人へと成長する過程に抱く、言葉に出来ない切なさが散りばめられたような文学・・・とでもいいましょうか・・・。
「ライ麦・・・」は多くの人がそうなように、私にとって、とても特別な一冊です。
サリンジャーは隠遁生活にあったのですが、その死によって、彼の未発表作品が世に出るという話もあります。けれどライ麦畑に共感したものとしては、そのまま静かに作品と共に眠らせてあげたい気がするのですが・・・。
サリンジャーは寡作だったので、学生時代夢中だった私は、その作品を全て手に入れようと決意していたものでした。
けれど、それは叶わず・・・「倒錯の森」という作品がありますが、当時、書店で手に取り、結局悩んだ末に棚に戻すということを繰り返していました。それは一重に、翻訳者が野崎孝氏でなかった為です。
その時の私は若かったし、翻訳の重要さなんて、深く考えたこともありません。けれど野崎氏は、サリンジャーは、この人以外の訳では読みたくない!と頑なに思わせた、初めての翻訳家でした。
海外文学を読んでいると、同じ作家の作品でも、とても面白いものと、全くそう思えないものがあります。
その話をパートナーにこぼすと、決まっていつも「それは、訳が悪いからだろう。」との返答。
確かに、そうなのです。
翻訳されて50年以上経っても、未だに色褪せない村岡花子氏訳のモンゴメリ。
カズオ・イシグロ作品を、まるで日本語で書かれたと錯覚するほどの自然な文体で表現する土屋政雄氏。
優れた翻訳家によって、原著は輝きを増しもすれば、鼻も引っ掛けられないものにも成り下がってしまう・・・。
そう、翻訳は大変なのです! ・・・と、日々、パートナーの翻訳と格闘している姿を見ていて、サリンジャーからついつい、話が逸れてしまいました。(パートナーの、ショパン本の翻訳にまつわる心情は、こちらでどうぞ!)
そういえば、いつぞやのクリスマスの本の交換で、私はなんと、パートナーの選んだ村上春樹訳の「ライ麦畑・・・」が当たったのでした。その夜、ワクワクしながら読み始め・・・しばらくしてパタンと閉じて、そのまま数年。
村上春樹訳は、私の感性の扉をノックしなかったようです、残念。(そして、この本を贈った当人は、実はサリンジャーを読んでいないのです!)