古い写真を見るのが好きで、
時々、ネットの世界へ蒐集に出かけます。
今日、ひと目見るなり 釘付けになってしまった少女。
おかっぱの髪に聡明そうな瞳、
意志の強そうな口元。
穢れが無く美しい、少女と呼ぶにふさわしいこの子は
いったい誰なんだろう?
写真に印字された文字によると、どうやらどこかの国の王女さまらしい・・・。
早速、この子を知るための旅へ出かけました。
彼女の名前はイレアナ・デ・ロムニア(1909~1991)。
ルーマニアのプリンセスでした。
以下、ウィキペディアより。
ルーマニア王フェルディナンド1世と妃マリアの三女として、ブカレストで誕生。
母マリアは長らく父フェルディナンドと不和であり、
長兄カロル2世と長姉エリサベタの後に生まれた兄弟たちの父親は、
マリアの愛人ではないかと疑問視されていた。
しかし、イレアナはその人柄を国民に広く愛されており、
愛人に溺れ醜聞にまみれた長兄カロルよりも人気が高かった。
そのため、カロルは妹を嫌い、彼女をルーマニア国外へ嫁がせることを画策した。
1931年7月、イレアナはトスカーナ大公家の公子アントンと結婚。
それを契機に、兄カロルは国民のハプスブルク家支配への憎悪を巧みに煽り、
イレアナとアントンのルーマニア国内居住を禁じた。
2人はウィーン郊外のゾンネブルク城に住み、6子が生まれた。
第二次世界大戦中、夫アントンはドイツ空軍に所属し、
イレアナは城をルーマニア傷病兵の病院として使用した。
1944年、イレアナは子供たちとルーマニアのブラン城へ移り住んだ。
アントンもブラン城へ合流したが、一家は赤軍の監視下に置かれた。
それでも、イレアナは城外のブラン村で病院を建設し働いた。
ルーマニア王制が崩壊し、共産主義国家が樹立されると、王家もイレアナ一家も国を追われた。
イレアナらはスイス、アルゼンチンへと移り住み、
最終的にはアメリカ・マサチューセッツ州に居をかまえた。
彼女はルーマニア正教会で働きながら、共産主義政権の不当性を訴え、
2冊の本を執筆するなど活動した。
この間の1954年、イレアナはアントンと離婚。
亡命ルーマニア人と再婚するが1965年に離婚し、
イレアナはフランスでビュシーの生神女庇護修道院に入った。
修道女アレクサンドラとなったイレアナは、
ペンシルベニア州に修道院を建てるため再び渡米。
1981年に引退するまで活動した。
1990年にようやく、娘に伴われて故国ルーマニアを訪問した。
写真で見ていると、
内面の美しさも透けてくるようで、魅力を感じます。
プリンセス・イレアナについて、ちょっと読んでみたくなりました。
何か本があるのだろうか・・・?
これから調べてみなければ。