それは、次女のことです。
私の親友と同じ誕生日、そして長女と全く、同じ木曜日の12時3分に生まれた次女は、私が二人の子どもの母になれた・・・と幸福な気持ちでいっぱいな時に、突然神に召されてしまいました。
毎年この季節は、春の喜びを感じる一方、心が締め付けられる想いにもかられます。
そして今日、知り合いの画家の方達の2つの展覧会が、心斎橋の百貨店の美術画廊にてありましたので、母と二人で出かけました。
会場に入ると、すぐに1枚の絵が目に入りました。
それは、薄ぼんやりとした光の中に、死んだ蓑虫と枯れた柊の小さなひと枝が描かれた絵でした。
心の中がざわざわとしてきて、14年前の出来事が胸に甦ってきました。
私の次女の名は、「柊」というのです。
次女の名前は、産まれるちょっと前に偶然読んだキリストのエピソードが心から離れずに付けました。
それは、キリストのいばらの冠から流れた血が、柊の赤い実になったというもので、なので柊は聖なる木と呼ばれるようになったというものです。
次女が亡くなった時、「こんな名前をつけたから亡くなった。」と言われ、苦しんだこともありました。
けれどその後、私はカトリック教会に通い、1年後に娘とともに洗礼を受け、娘は12年間カトリックの環境で学ぶこととなりました。
それは、たった1日しかこの世に存在しなかったけれど、次女が導いたのだと思います。
展覧会のその絵は、本来なら枯れて寂しげであるだろう柊なのに、何故だか希望と安らぎを感じさせてくれるものでした。
それは、傍らに蓑虫がいたからだと思いました。
見入っていた私に画家の方が、
「この絵は、これまでも、そしてこれからもずっと寄り添っていく・・・という気持ちを表現したものです。」
と説明された時、不覚にも泣き出してしまいました。
あまりにも、私の心情と同じだったからです。
次女は、いつまでも私の中で、小さな小さな赤ん坊のまま、確かに生き続けているのです。
今日は、本当にあの絵を見ることができてよかった。
これも、きっと何か運命のようなものだったのだと思うのです。